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がんの告知
2024年12月06日|
カテゴリー: 施設長
ひっきりなしにナースコールが鳴っている。昭和47年(1972年)の公立学校共済組合東海中央病院外科病棟のナースステーションである。研修医の江角医師と がん性腹膜炎患者の病室へ向かった。「あなたは、がんがお腹に広がっているので痛いのですよ。」と江角医師が伝えた。その当時、がんを本人に告知してはいけないと大学や病院の先輩医師から教えられてきたので驚いた。がん告知後、ナースコールはピタリと止み、患者の表情は穏やかになった。この体験から状況を見て告知した方が良いと考え、実行した。江角医師は大学紛争の学生運動主導者であり、頭脳明晰で判断力に優れていた。告知した方が良いと分析・判断したのであろう。卒業後、就職の当てがなかった彼を受け入れたのは院長であった。院長は名大外科教授時代に彼に吊し上げられた医師であった。院長は彼の優秀なところを見抜いていたのだろう。彼は後に国立がんセンター東病院長になった。平成元年(1989年)になり、告知が少しずつ始まり、平成10年は告知率15%となった。平成14年(2002年)、最高裁で患者・家族への告知は義務であるという判決が出た。我々はこれより30年も前から告知をしていたのが自慢である。日本では現在告知率ほぼ100%近くになっている。ちなみに特殊な例だが、明治維新で活躍した岩倉具視が明治16年(1883年)東大お抱え外国人医師から食道がんで絶望的状態という告知を受けていた。
施設長 立松 輝